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あわの実
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    中学1年生の時、パウロ会の機関誌「希望の丘」に掲載された私の文章です。こんな純粋な時もあったな〜
    修道士さんは今は亡きパウロ山野修道士さんです。通称、パウロさんと呼んでいました。パウロさんとは他にも忘れられないエピソード、言葉がたくさんあります。
    ー私たちの生活ー
    あわの実
    9月のある日、夕食が終るとすぐ、僕はうすぐらい外に出た。先週の美術の宿題を忘れて、明日まで出すようにと言われていたからだ。題は精密画なので、そのモデルを探しに行ったというわけである。なに気なくそこらにあった名も知らないモデルの草をとると、急いで4階にかけのぼった。
     自習が始まると、すぐこの宿題にとりかかった。輪郭を書き、色をぬり、例の草をチリ箱にすてて仕上げをしていると、二年生のSさんが例の草をもってきて、「こりゃお前がとって来たっちゃろ」ときいたので「ウン」と答えた。すると「あいーや、こりゃ修道士さんが育てよるいっちょしかなかあわばい。見つかればやらるるたな」(方言です)と言ったので、僕は胸がドキンとした。そしてその時、これがあわなのかと始めて知った。アワをくった、とはこのとだ。修道士さんが来たのであわててそれをかくした。修道士さんは僕の絵を見て、「ウン、うまい、うまい」とおっしゃった。僕はうれしかったが、あんまりうますぎて、あわの実をちぎったことがわかるかも知れない、と思って、こわくもあった。それで自習がすんだら、すぐおわびしようと思った。その間の二十分が一時間のように長く感じた。
     やっと自習が終り、おわびしようと修道士さんの所まで行ったが、どうしても白じょうする勇気が出なかった。それで、そのままあわの実をポケットに入れて聖堂に入ったが、夕の祈りをしながらあれこれ考えていた。小さい時、しんせきの姉さんたちが、「何か悪いことしたと気がついたら、すぐあやまること、そうすればすぐ許してもらえるし、あまりしかられないですむ」という言葉だった。
     祈りのあと思いきって寝室で修道士さんに白じょうしたら、ニコニコしながら「ウン、いいよ、いいよ」とおっしゃったのでホッとした。あくる日、その宿題を出すと、案外いい点をもらったので、喜び勇んで帰った。修道士さんに見せると「あわの実をちぎったかわりだな」と言ってほめて下さった。
     あとで知ったことだが、あわの実は小鳥の餌になるのだそうだ。修道院には、きれいな、こきん鳥や文鳥、それに十姉妹などが飼ってあり、M君が毎日餌や水をやっている。それで、このあわの実を大事にしていることがわかったのである。そのあわを僕はむぞうさに取ってしまったのだから、修道士さんはきっとがっかりされたにちがいない。それでも僕が悪かったと気がついて、正直にあやまったので、ふだんは悪いことをしたり規律をやぶるときつくとがめる修道士さんが、何も言わずに、やさしくうなずいただけだった。ほんとうに僕は、自分からあやまって良かったと思う。そして、僕のまちがいをすぐ教えてくれた二年生のSさんにも感謝したい。これからの修道生活でも、このようにお互い協力し合うならどんなにいいだろう。
     


     
    posted by: Michele:ミケレ | 聖パウロ協力者会 | 08:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    Benvenuto Primo Maestro !
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       「ベンヴェヌート プリモ マエストロ」(ようこそ 第一の先生=直訳?)
      ある日、写真でよく見ていた少し首を傾げた小柄なヤコボ・アルベリオーネ神父様が今は無くなった小笹修道院の玄関に入ってこられました。
       案内されて来られたのが確か故グイッド・パガニーニ神父様と他におられたかどうか?お出迎えしたのがこれも故マテオ・プラッサ神父様(当時、福岡修道院院長)と故パウロ山野修道士さんと数十人の中学生の志願者たちでした。もちろん筆者の私もその中に・・。先述した挨拶の言葉は前日にパウロ山野修道士さんから教えて頂き練習し全員で挨拶しました。

       それから約半世紀、おぼろげな記憶になってしまいました。プリモ・マエストロに(アルベリオーネ神父様ではなくプリモ・マエストロと呼んでいました)我々が直に日本で会えた最後の年代だと思います。今では福者になられ近いうちに聖人になるであろうお方に直にお会いできたのは私自身の誇りです。
       その誇りから遠ざかるのが寂しいのかどうかパウロ会を数十年前に退会してからもパウロ会との関わりを切れないでいます。多分、他の退会された人たち、高学年の志願期または修練期以上で退会された方たちはある程度パウロ会について、パウロについて、プリモ・マエストロについて学んでいます。その価値も知っています。誓願期以上だったらなおさらでしょう。それぞれの理由で関わりを続けていと思っています。多分、私も含めてその価値を説明しろと言われても上手く説明できないでしょう。
       協力者会の会員の方たちも、それぞれの理由はあるでしょうがパウロ会に関わりたい気持ちは同じだとおもいます。ただ、会員の高齢化、または多忙さから私を含めて協力者会の集まりへの参加者が減ってきています。そのうち協力者会が消滅するのではと危惧する人もいます。現在の運営は滞るでしょうがパウロ会が存続する以上協力者会が消滅することはないでしょう。
       でも、どの地方区でも言えることでしょうがパウロ会に近かったり交通の便がいいと度々気軽に訪問して関わりを確かめ直接的な協力も可能です。しかし、関わりを継続したくてもいろんな理由で関わりが叶わず遠ざかる人も居ると思います。世の中には、この関わりを続けてもらうために多くの方法が使われています。経験された方も居ると思いますが、お店またはインタネットーでお得感を示され自分の住所氏名を登録することがあります。要はお店の会員にされます。そのあとは知っての通りお店によってはしつこく頻繁にダイレクト・メールが来ます。数行の文字と写真入りのハガキ、インターネットでは数行のメルマガが送られて来ます。もちろん利益、商売のためですがなんとか会員を繋ぎとめようと努力しています。
       気づかれた方もいると思いますが、この関係は利益、商売を除けばパウロ会と協力者会の関係に真似出来ないでしょうか。  
      私が言うことではないですがあえて言います。可能であればパウロ会がもう少し協力者会の「祈り、活動、犠牲」の必要性を協力者会会員一人々に直接、頻繁にアピールすることができればと思います。協力者会側からの情報も必要ですが、協力される側パウロ会の直接のアピールには叶わないと思います。
       
       


       
      posted by: Michele:ミケレ | 聖パウロ協力者会 | 20:05 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
      人はなぜ祈るのか?祈りって?
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         人はなぜ祈るのでしょう。それは、神から与えられたままに人が存在しているからです。その与えられたままの人の中には、神の座があるのです。心が神の座です。そこで神はたえず人を招き続け、ご自分に出会いに来るのを待っておられるのです。人にとって祈りたくなるのは、この心という座にあっていつも神が招いておられるのです。
         人の心のふるさとは、神ご自身以外にはありません。いつまでたっても故郷の空や野山や小川が懐かしいように、人は自分の存在の源である神を忘れることはできません。そこに帰ってほっと息をつきたくなります。喧騒の中からしばしば抜けだしてふるさとに帰ると、人はよみがえります。それが祈りです。 
         人間を造られた神は、人が弱く、いつも何か足りないものを求めており、時には悩み、時には乾き、時には孤独で、こういった自分をしっかりと受け止めてくれる偉大な腕を欲しがっていることをご存知です。その腕の中に飛び込んでいくことが祈りです。
         大自然の美しさに触れる、人の心の温かさに接する、労苦を重ねてよき成果を収める、喜ばしい出来事と出会う、幼児の愛らしい笑顔を見る、そういったとき、人は神に感謝と賛美をささげたくなります。ここにも、祈りがあります。
         
        posted by: Michele:ミケレ | - | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        祈りする時はイエスのように一人っきりで
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          人は自分の心の中に、多くの何かを抱えこんでいます。時にはそれは、現在直面している課題や悩みかもしれません。時には人のための心配かもしれません。またある時には、御父に対する愛の思いであり、ある時にはことばに表し尽くせない自分の貧しさや卑小さの実感でしょう。こうしたさまざまな心の中のことがらは、神と自分との間だけのプライパシーにかかわるものです。他の人間に伝えてリ相談しても、どうすることもできない人間の限界を超えた内容を秘めているものです。このような性質のものを抱いているとき、こうしたプライパシーにかかわってくださる神の存在を求めるようになります。そして神以外のすべてを離れて、もっぱら神だけと向かい合いたくなるのです。そこからは、忙しさや騒々しさの中では絶対に手に入らない豊かさがあふれてきます。神からだけしか得られない宝が与えられるのです。人里離れて祈られたイエスにもっと倣わなければなりません。(カトリック教会の教え P430)
          posted by: Michele:ミケレ | - | 06:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          イエスが要求されることは一言「あなたは人の子を信じるか」
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            イエスの宣教活動の間に、病気をいやされたり、罪の圧迫から開放されたり、悪霊を追い出してもらったりした無数の人たちは、すでにイエスによって「天の国」を体験させてもらっていたのです。この人たちは、特別に他の人よりも人間的に偉大であったのでもなく、精神的に崇高であったのでも、日々の行いがりっぱであったのでもなかったことは、だれでも気づくでしょう。ただ、イエスがこれらの人々に、ご自分の指で解放と救いを与えるとき要求されたことは「あなたは人の子を信じるか」ということだけでした。(「カトリック教会の教え」より)
            posted by: Michele:ミケレ | - | 06:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |